「補講に来なさい」
これは、今から数十年前のこと。
まだ私が、駆け出しのピアノ講師だったころのことです。
当時から、私はコンクールに出場する生徒をレッスンしていました。
これをご覧の先生もご経験がおありかもしれませんが、コンクールや発表会などは意外と生徒本人はのんびりしているところがあります。
それに対して、先生としては「コンクールまでにはここまで仕上げたい」というお考えがおありですよね。
にも関わらず、コンクールが間近に迫っても仕上がってこない…。
かつての私は、そのような状況に焦っていました。
補講に来なさい
そして、見かねて私のほうから生徒に「補講に来なさい」と申し伝えていたんですね。
しかも当時は、補講のレッスン料をもらわずにやっていました。
けれど、今になってわかることは、コンクール前にたくさん補講していたときのほうが結果に結びつかなかったということです。
結果として、生徒や保護者の方を依存させてしまっていたのだと思います。
こちらから、コンクールに向けて「こうしなさい、ああしなさい」と細かく指導し、補講レッスンも何回も(しかも無料で)行ってきたことで、生徒・保護者の方に無意識に”甘え”が出てしまったのだと思うんですね。
私がそういう生徒を作っていた
「先生がなんとかしてくれるだろう」
そう言葉にすることはなくとも、取り組む姿勢が生徒本人の意志というよりも私に言われたとおりにしようとしていたと思います。
依存させてしまっていたんですね。
(お恥ずかしながら…)そういう生徒を作っていたのは、まぎれもなく私自身だったんです。
レッスンは教えすぎない
こうした苦い経験を経て、今ではたとえコンクールであっても私は教えすぎないようになりました。
しかし、やはり生徒のペースで取り組んでいると一向に仕上がってこないということは起こります。
ですので、ある程度、緊迫した状態でレッスンをするようにはしています。
そして、以下のようなことを折を見ては伝えています。
「(コンクールまで)レッスンあと○回しかないよ」
「自分から見て、足りないと思ったら補講に来なさい」
「補講も、あと○回しか入れられないよ」
そのうえで、生徒本人が考えて行動することを尊重しています。
個性的な演奏がどんどん出てくる
私自身が、昔(昭和)の教育を受けてきたこともあってか(!?)、かつては指導において生徒には指示をしなければいけないものだと考えていました。
ちなみに、そのような指導をすると、どんなお子さんもそこの教室の先生の弾き方になる傾向があります。
それは、先生が教え込むことが原因です。
そのため、以前はコンクールなどで他の教室のお子さんの演奏を聴けば「あ、あそこの先生のとこの子だな」とわかったものでした。
そして、昔のコンクールでは、先生の指導のとおりに弾くことが評価されていたという側面もあったんですね。
けれど、今はそうではありません。
ひとりひとりの個性的な独創的な演奏が大切に、評価されるようになってきています。
そのためには、先生が生徒に「教え込む」ことを手放す必要があります。
そして「教え込む」を手放したときに、生徒が本来持っている個性的な演奏がどんどん出てくるようになるんですね。
同じ課題曲でも全然違う演奏に!
今では、私自身も教えすぎず、気づかせることに徹しています。
ちなみに、生徒によってはコンクールの課題曲が被ることもあります。
しかし、同じ課題曲でも奏者によって全然演奏が違うんですね。
楽譜どおりに演奏し、作者の世界観を壊さない範囲で本人が弾きたいように弾かせてあげると、同じ四分音符、同じスラーなのに表現が変わってくるんです。
そのような演奏を観て聴いてきたことで、今の私は「(演奏は)違って当たり前」だと思うようになりました。
むしろ「違いを認めるのが音楽」だと、強く感じています。
そして、不思議なんですが私自身の意識が変わるにつれて、コンクールでの結果も伴うようになっていったんですね。
教えることを手放して、ひとりひとり異なる音楽を認める。
私自身、先生の意識が変わることで目の前の結果が変わることを実感したエピソードのひとつでした。